2014年12月10日 岐阜県看護協会主催の研修「ナースとしてできる在宅移行支援」にて、ご自宅でご主人を看取られたふたりの奥様にお話をいただきました。おふたりの会場でのお話を、許可をいただいて掲載させていだだきます。

今日は、オレンジファイルを持ってきました。素晴らしい色でしょ。在宅医療に関わった日から、最期まで診療録などをファイルしてもらいました。夫が亡くなった今では私の宝物です。私が亡くなる時には、棺桶に一緒に入れてほしいと思っています。

11月6日に主人が81歳亡くなって、やっと一周忌が過ぎました。
主人は高校の校長をしておりまして、私も小学校の教員でした。結婚57年です。息子の家から15分ほどのところに、老夫婦二人で住んでいました。
がんが見つかった時は、すでに手遅れだと言われました。発見が遅かったのです。ずっと肩がいたいと言っていたのですが、すでに肺がんは転移もしていました。手術はできないし、治療方法がない。呼吸が苦しくて、もう酸素を付けて何度か入退院を繰り返していました。「ホスピスに」と思いましたが、空いていません。
夫は「入院は嫌だ」と思っていたと思います。けれども家族に迷惑をかけると思ったのでしょうね、口では言いませんでした。でも病院で
「あそこに、本があったな」とか
「イヤホンなしでテレビが見たいな」って言うんです。
それって「家がいい」ってことですよね。実は知り合いが、こちらにお世話になっていて「在宅医療はいいよ」と聞いていたので、私も担当医の先生に聞いてご紹介いただきました。そして、いろいろとお話を聞いた上で「それならば…」と決意しました。

夫は何も言いませんでしたよ。自宅に帰ることになったことを伝えると、ひとこと
「それでいい」と。
実際に自宅で看護できるかどうかは心配でしたが「主人をしっかり看てあげよう」と覚悟を決めることができました。
在宅医療で困ったことや、嫌だったこと。きっと何かあったのかもしれませんが、今は「在宅でよかった」としか思えません。だから今日、ここでお話しています。
何しろ家に帰って、夫は生き返りました(笑)。パソコンを触って、それが思うように動かないと怒るんです。でも、怒れるくらい元気になんですよ。野良猫が来れば
「お前まで、俺を歓迎してくれているのか?」
と言うんですよ。朝起きて
「味噌汁の匂いがするのはいいなぁ」
と言ったこともあります。もう飲める状態ではなかったのに、うれしそうでした。
「看護師さんは、今日は誰が来てくれるのか?美人かな?」
なんて言って楽しみにしていました。生活感あふれる中で暮らせることを心から喜んでいる感じがしました。もちろん麻薬の皮下注射をしながらで、苦しそうな時期もありましたが、それでも病院に戻りたいとは一度も言いませんでしたね。

亡くなる2日前のことです。
市橋先生が来てくださった時のことです。先生が、主人の前で息子に「どんなお父さんでした?」と聞いて下さいました。
「厳しい父だった」と言って、息子は思い出を語り出しました。行ってはいけないバッティングセンターで見つかって「お前たちは約束を破った!」と自分だけでなく友達まで一緒に殴られた。友達からは今でもその話をされる。けれども、優しいところもある父でした、と。市橋先生が
「お父さん、息子さんがそういうお父さんだったって言ってますよ」
と声をかけて下さると、主人は涙をぽろっと流しました。
そうした主人の最期を孫たちは見ていました。娘が家に着くのを待っていたように夫は息を引き取り、家族全員で最期を看取ることができました。そういうことができるのは、病院のベッドじゃない、家だからできた、と思っています。
夫は「希望死」であり「満足死」であったと思っています。
 ケアマネジャーさんが「奥さんは一人じゃないからね。みんなが一緒にいるからね」と言ってくれた言葉が心強かった。訪問看護師さんたちは、尊い仕事をしてくださって本当に感謝します。私一人だけじゃなかったから、がんばれたのだと思います。

 

夫は冬はスキー、夏は昆虫採集にはまって蝶々が大好きで、釣りもする多趣味な人。若い頃は私や友人たちと一緒によく遊びにも行きました。孫が生まれてからは「毎年一回は孫たちと旅行に行こう」と、いろいろな計画を立てていました。東京ディズニーランドに行ったのは、まだかかりつけ医からは胃潰瘍と言われて薬を飲んでいた頃です。
旅行の後、あまりに胃の痛みが続くので、総合病院で胃カメラの検査を受けることになりました。調子が悪そうだったので「私も一緒に一泊入院させてください」と頼み込み、一晩病室にいたら次の日に急変。緊急手術を受け、もう手遅れの胃がんだとわかりました。
退院時には、最初に紹介されたのはホスピスです。でも、空きがなくて、順番待ち。主人は「やることがないなら、病院にいる意味がない」と言うので、家に帰るのがいいだろうと思いました。親族には「あなた一人で看れるの?」と言われましたが、私は家に連れて帰ってきてあげたかった。病院の先生に相談したところ「在宅医療という方法があります」と教えていただけたのです。

丁度、冬季オリンピックがやっていて、主人は家の大きなテレビで、大きな音を出して、大きな声で真央ちゃんを応援したかったようです。2人の孫たちもよく来てくれて、ベッドの両脇に入って3人でふざけあっていました。
ある時、総合在宅の先生に「何かしたいことはない?」と聞かれました。
「孫と小豆島の温泉に行く予定でいけなかったから、温泉に行きたい」。
すると、その場で看護師さんが長良川温泉の老舗旅館に連絡をとってくれ、週末には孫と一緒に昼ごはんを食べて温泉に入ることができました。
そのときの温泉を、主人はとても気に入って。亡くなる2ヶ月前にも、今度は娘家族や息子も一緒に泊りで行くことができたんです。

お正月にはね、病院の医師に「来年はない」と言われていましたから、私が桜の着物を着てお祝いしたんです。そしたら、車で喫茶店に連れて行ってくれて。それまでも毎週土曜日、朝早い時間に喫茶店にはふたりでよく行っていました。一緒に行っても、特に何かをしゃべるわけではないんですけどね。
私は、病院に泊まるときも、家に帰ってからも、できるだけ服や化粧を気遣って、おしゃれをしていました。そうすれば「もう少し一緒にいたい」と思ってくれるのではないか…と思って。

ある日、看護師さんが帰りがけに
「もうあまり長くないかもしれないから。あと1週間ぐらいなので、どうぞいろいろお話しをしてね」と。
だからね、二人で昔の話をいろいろしたんです。話していくうちに、病気のことを仲人さんに話をしていないことに気づいて、仲人さんの奥さんに電話をしたり。結構遅くまで話していて、眠る前に私が主人に
「私と結婚して良かった?」と聞いたら
「よかったよぉ」と。
きっと「ありがとう。」の意味だったと思います。そうしたことを、今まで口にする人ではなかったんですけどね。その日、夜中にトイレに起きてもう一度寝る前に、いつものように主人の手を握ったんです。そうしたら冷くなっていました。
それであわてて先生に連絡をとりました。こんなに早く亡くなるとは。あれが本当に最期の言葉でした。今でもひとつ後悔があるんです。あのときに「私も、結婚して良かった」と言っておけばよかった、と。
 まだ1年たっておらず、今も思い出すとふいに涙がこぼれます。 でも自宅で最期まで看取ることができて、よかったと思っています。